2012年4月28日土曜日

ブラックホール衝突について


ブラックホール同士が衝突した場合、膨大なエネルギーの放出とともに
二つのブラックホールが融合する、という解説を読みました。
しかしいくつか疑問があります。

1.ブラックホールの中には回転している物があることが知られています。
逆回転しているブラックホールがぶつかり合うとどうなるんでしょうか?

2.それらが同一質量だった場合削りあって完全消滅、なんてこともありうる
のでしょうか?その場合恐ろしい量のエネルギーが放出されることに…

3.ブラックホールのような大質量天体は空間を歪曲させます。
衝突の際、空間はどうなってしまうのか?ちぎれるのか、つながるのか…

調べたり考えたりしてもどーにもわかりませんです、はい。


>>1 スレ主さん

回答してみます。

>ブラックホール同士が衝突した場合、膨大なエネルギーの放出とともに
>二つのブラックホールが融合する、という解説を読みました。
>しかしいくつか疑問があります。
>
>1.ブラックホールの中には回転している物があることが知られています。
>逆回転しているブラックホールがぶつかり合うとどうなるんでしょうか?
多分,回転しないブラックホールになる
>
>2.それらが同一質量だった場合削りあって完全消滅、なんてこともありうる
>のでしょうか?その場合恐ろしい量のエネルギーが放出されることに…
ブラックホールが融合する。
膨大なエネルギーが放出されるかどうかは分からない。
なにしろ,どんな物質も抜け出せないのだから,エネルギー=質量が抜け出せるのか疑問。
膠着円盤からガンマー線が放出されるのか?
ブラックホールの表面で,量子論的な揺らぎによりエネルギーが放出し,10の100乗年位かけてブラックホールは蒸発するという話は聞きました。

>
>3.ブラックホールのような大質量天体は空間を歪曲させます。
>衝突の際、空間はどうなってしまうのか?ちぎれるのか、つながるのか…
事象の地平線の向こう側のことは分からない。


>2.それらが同一質量だった場合削りあって完全消滅、なんてこともありうる
のでしょうか?その場合恐ろしい量のエネルギーが放出されることに…

案外、ビックバンがそれだったのかもしれませんね。


「右回転している粘土」と「左回転している粘土」を衝突させた時と同じにならないんですかね?

銀河の中心にはブラックホールがあると考えられています。
我々の住んでいる天の川銀河の中心は白鳥座X1という星で,ブラックホールだと考えられています。
広い宇宙には銀河の衝突あとがたくさん見られます。
銀河を銀河が突き抜けたものも,合体したものもあります。
それが答えになると考えます。
ビックバンのような爆発は起こらず,より大きなブラックホールになるだけだと思います。
ビックバンは,この宇宙を作り出したのです,その宇宙には,ブラックホールがたくさんあります。
一つや二つのブラックホールが衝突合体したぐらいで,ビッグバンが起こるとは思えません。

ビッグバンは…

実は1つのブラックホールの時間反転なのですよ…


銀河系の中心が爆発して宇宙が発生して、地球も煽りを食って蒸発してしまうという小説がありました。
グレッグ・イーガンの、・・・・・・・何だっけか?

物質宇宙の構造は科学によっていくらか解き明かされていますが、なぜ宇宙はこのように存在しているのか、なぜこのような構造が存在しているのか、なぜ物質は物質という存在形態を取っているのかは何も解っていません。

そもそも『宇宙』や『物質』が『存在する』とは『どういうことなのか』。
この問いが、またこの問いの中の『』で括った言葉がいったい何を意味しえているのか、何を意味しそこねているのか。
科学の約束の中では意味を定めて言葉の体系がもちいられていますが、それは人間が便宜的に作り出して利用している思考の道具に過ぎません。
宇宙の知ったことではありません。
この問いを発するとき、わたしは科学を超えた宇宙的な意味で本当に何かを問いえているのか、それとも完全にナンセンスな単語の羅列を発音したのに過ぎないのか。

人間の言葉や知性が宇宙の謎に少しでも触れる可能性はあるのかどうか。
それは永遠の謎かもしれません。
ともかく問いを発し、その問いが何かを問いえているのだとされるような概念体系を築くことができるだけなのかも知れません。

宇宙の背後の問題については、少なくとも今のところ人間の知性はほぼ完全にお手上げです。
もしかしたら、素粒子ひとつの中にも無限の宇宙を生み出すだけのエネルギーもしくはそのような何者かが潜んでいたとしてもおかしくはないんでしょう。
何も解らないのだから、何とでも言えます。
そして何とでも言ってみることしかできないんです。

無限の質量をもつブラックホールは科学の体系の中でも物理法則を無視したイレギュラーな概念ですね。
無限という観念は困ったときに便利でもあり、その意味を解き明かそうとすれば謎もまた無限に深まるばかりです。


ブラックホールの質量も有限です。
その質量からシュワルツシルトの計算式で半径が計算されて,ブラックホールの大きさが決まります。

事象の地平面の向こうからは光さえも脱出できないため観測ができません。
そのために,事象の地平面の向こうのことは実証主義的には何も言えないのです。
ブラックホールが物理法則を無視しているのではなく,観測できないために物理の法則を構築できないのです。

確かに,真空の揺らぎの中から,インフレーションやビッグバンが発生したという理論や,宇宙が50回もビッグバン,ビッククランチを繰り返したという説などがありますが,ブラックホールから新たな宇宙が発生しているという説は聞いたことがありません。

また,新たに発生した宇宙は別の次元に発生するために,基本的に我々の宇宙に何の影響も及ぼさないと考えられています。
ブレーン宇宙理論では,重力だけが他のブレーンにまで伝播するという説もありますが,それは例外です。

ブラックホールは,どこかのホワイトホールに繋がっているという仮説もありますが,ホワイトホールは未だに発見されていません。

超ひも理論に基づく,M理論や5次元宇宙,11次元宇宙など様々な仮説がありますが,それはそれなりに,何かの理論の裏づけがあって,様々な試行錯誤の結果でてきています。

何も分からないから何とでもいえるのではなく,ある仮定の下に何かを推論しているのです。

科学とSFと思い付きとは,かなり違うものだと,私は考えます。


>>8 kamekameさん

ブラックホールの中心は『特異点』で、ある意味ではこれだけがブラックホールの本体ないし実体で、その周囲に生じる諸現象は特異点によって引き起こされる物理的な影響でしかありません。
特異点とは「大きさのない点に無限の密度と質量が収縮する」という言語はおろか物理法則さえ超越した『アリエナ~イ』事態です。


化学接頭辞を覚えておく方法

ブラックホールの総質量は有限(大雑把に言うと元になった恒星の質量の内、超新星爆発で吹っ飛ばなかった分、つまり最初に中心に向かって崩落した分)ですが、問題はその有限の質量が大きさのない一点に収縮してしまっている、その結果空間的な大きさをもたない「?物体?」や、無限の密度すなわち無限の質量という事態が生じてしまっているという、宇宙の抱える奇妙な矛盾です。

特異点が物理法則を無視していることは、宇宙論においては問題になりません。
何しろ物理法則を無視してしまっているので、物理的に問題にすることができないからです。
「特異点は物理法則を無視しています。以上!」と言うことしかできないんです。
シュワ半径やガス円盤やガス噴射は、特異点という無法者が周囲の物理世界を引っ掻き回すことで発生した現象で、これは物理世界の秩序に従っています。
もちろんブラックホールというネーミングは光さえ脱出できないシュワ半径を「真っ暗な穴」にたとえたものですが、特異点事件をこうして物理世界に生じる影響の面から眺めるかぎり(もちろんそうするしかなく)、ガス円盤やエックス線放射なども含めた観測現象として、ブラックホールと呼ばれるのが普通です。

科学の観測というのは直接間接や論理的帰結まで含めたきわめて理論的で方法的な手段です。
科学者の中では理論屋と観測屋が張り合っているなんて言いますが、あれは理論屋にとって観測は理論を作る道具でしかなく、観測屋にとって理論は観測を作る道具でしかないということです。
はたから見れば、観測に基づく理論と、理論に基づく観測があって、川があるから水が流れるのか、水が流れるから川があるのかというような、同じことの逆の言い方でしかありません。

恒星の内部だってほじくって覗き込むことはできませんが、いろいろなタイプの望遠鏡と理論体系を駆使して「観測可能」の領域に手繰り込むのが科学です。
シュワ半径の内部も観測可能な物理現象が渦巻いていると、考えるわけです。
蓋の閉ざされた箱の中には、おそらく観測可能な現象が存在していると想定するんです。
存在しなかったら科学は成り立ちません。
方法的懐疑もあれば方法的確信もあるんです。
「科学理論は成り立つものとする」というのが科学の第一公理だと言ってもいいくらいです。

もし蓋を開けてみたときに、生きているけど死んでもいる猫がいて、その姿がだんだん透明になって顔の消えた跡に笑いだけが残ったりしたら、その時は科学の歴史は終わりです。
しかし、おそらくそういうことは起きないだろうと仮定することが科学の根拠です。
幸い歴史上そういうことはありませんでした。
ブラックホールの特異点も無限大の引力で大きさのない一点にとどまってくれていて、物理世界に物理法則を無視した影響を及ぼすまでのことはなさそうなので、「宇宙は物理法則に支配されている(特異点は除く)」と言っておけば科学はまだまだ有効です。

物理世界の物理的生物としては物理法則を手がかりに現象を解き明かすしかないので、特異点の周囲で物理的に何が起きているのかを研究することしかできないのは当然です。
そして、
二つの「特異点の周辺の諸現象」が衝突したらどうなるかを科学的にシミュレートすることは可能ですが、二つの「特異点そのもの」が衝突したらどうなるのかを科学的に推論することは不可能です。
特異点は物理法則を無視した存在、すなわち物理学の理論では記述できない存在だからです。
特異点そのものについてはほとんど理解不能です。
とりわけ肝心なことは全くわかりません。

なぜ、特異点などというものが存在しうるのか。
言い換えれば、なぜ宇宙に非物理的な現象が存在するのか。
そもそも、なぜ宇宙は物理的な現象として存在するのか。

いろいろ考えてみると、たとえば、特異点を特異と呼ぶのは物理世界の発想で、本当は物理世界こそ特異な存在なのかもしれない。
存在とは本来特異点のような無限性で、なにかが損なわれて有限性の法則世界がポップコーンのように膨れてはじけたのかもしれない。
重力とは有限性の世界に留められた無限性の残滓のようなもの。
などなど。
はい、思いつきのでたらめです。
こういう考え方は、「科学的ではないから間違っている」のではなく、「科学的ではない」んです。
科学的な判定の対象ではそもそもありません。
科学的とは、ある考え方の有効性を常に問うことです。
それが科学の条件です。
「有効性を問わずに考えてみる」のは、たんに「考えてみる」ということです。

科学の限界の範囲内では科学の思考が成り立ちます。
科学的な研究のすべては科学的である、これはただの同語反復です。
だから科学がすべてなのだと考えるのは誤りです。
これはとても単純な思い違いです。
科学「の」すべてであって、科学「が」すべて、ではありません。
科学がすべてだと主張する人は、ほとんどの場合、正確に解釈すると「科学は科学なのだ」と主張しているだけで、それだけに正しく、かつ無意味です。

科学の限界の範囲外では科学の思考は成り立ちません。
科学の限界を意識しないところに優れた科学的研究が生まれることは稀です。
科学の問題は科学的世界観の有効性の界面にしか存在しないからです。

多くの科学者は科学的世界観の有効性の内部で思考の安定を手に入れて、安定を乱す者を激しく敵視することさえあります。
そこに限界があるから立ち止まるという人はいます。
それでも科学は動きます。
そこに限界があるから前に進むという人もいます。


>>9 naturaさん

はじめまして
naturaさんへの最初の感想は,「実に多くのことをご存知なのに,実に惜しい。」です。

>ブラックホールの中心は『特異点』で、ある意味ではこれだけがブラックホールの本体ないし実体で、その周囲に生じる諸現象は特異点によって引き起こされる物理的な影響でしかありません。
>特異点とは「大きさのない点に無限の密度と質量が収縮する」という言語はおろか物理法則さえ超越した『アリエナ~イ』事態です。
まず,特異点定理は,相対性理論を元にペンローズとホーキングにより発表されたものですが,この両者は,微妙に特異点に関する捉え方が異なっています。大雑把に言うとホーキングは,数式を解くと特異点が出てくるのだから特異点は存在するに違いないと考え,ペンローズは,無限大に発散してしまう特異点が出てきてしまうということは,理論のどこかに誤りがあるに違いないと考えるのです。
そして,点に近い領域では,量子論的な効果が現れるはずだということで,ループ量子重力理論(ペンローズのツイスター理論とスピンネットワークを含む),超ひも理論などが考えられています。


RIPはどのように形成されるか

この様に,物理法則が先にあるのではなく,物理現象が先にあり,それを,解明するために理論(仮説)が構築されるのです。
確かに,仮説を検証する時に,その理論でしか予測できない予言を行い,それを観測で見つけることによって,理論の正しさを確認するという手順を踏むことはあります。しかし,その場合であっても,否定されるのは現象ではなく仮説です。
naturaさんの表現は,時としてこの逆のニュアンス(例えば,「特異点は物理の法則を無視している」「特異点は物理の法則さえ超越したありえない存在である。」など)で発言されているようなので,ここには,一応コメントしておきました。
(一応と前書きしたのは,本当は分かっていて,分かりやすさを心がけたための表現なのかもしれないと思ったからです。)
(wikiの「特異点定理」「量子重力理論」等参照ください。)

>ブラックホールの総質量は有限(大雑把に言うと元になった恒星の質量の内、超新星爆発で吹っ飛ばなかった分、つまり最初に中心に向かって崩落した分)ですが、問題はその有限の質量が大きさのない一点に収縮してしまっている、その結果空間的な大きさをもたない「?物体?」や、無限の密度すなわち無限の質量という事態が生じてしまっているという、宇宙の抱える奇妙な矛盾です。

ブラックホールの質量が無限であると発言されたのは撤回されるのですね。
無限の質量を持ったものが宇宙に一つでもあれば,宇宙の全ての物質はその質量を持ったブラックホールに吸収されてしまい,とっくの昔に宇宙はなくなってしまい,我々も存在していなかっただろうと考えられますから,無限の質量を持ったブラックホールは存在しないだろうと考えられますね。
また,質量が一点に集中してしまって,密度,質量が無限大の点が存在するというのは,相対性理論だけを用いた計算結果であって,事実だと確認されたわけではありませんし,そのことをもって,ブラックホールの質量が無限だと言うのは少なくとも表現上の誤りです。

>特異点が物理法則を無視していることは、宇宙論においては問題になりません。
>何しろ物理法則を無視してしまっているので、物理的に問題にすることができないからです。
>「特異点は物理法則を無視しています。以上!」と言うことしかできないんです。
>シュワ半径やガス円盤やガス噴射は、特異点という無法者が周囲の物理世界を引っ掻き回すことで発生した現象で、これは物理世界の秩序に従っています。
>もちろんブラックホールというネーミングは光さえ脱出できないシュワ半径を「真っ暗な穴」にたとえたものですが、特異点事件をこうして物理世界に生じる影響の面から眺めるかぎり(もちろんそうするしかなく)、ガス円盤やエックス線放射なども含めた観測現象として、ブラックホールと呼ばれるのが普通です。
仰るとおりですね。ここはコメントありません。

>科学の観測というのは直接間接や論理的帰結まで含めたきわめて理論的で方法的な手段です。
>科学者の中では理論屋と観測屋が張り合っているなんて言いますが、あれは理論屋にとって観測は理論を作る道具でしかなく、観測屋にとって理論は観測を作る道具でしかないということです。
>はたから見れば、観測に基づく理論と、理論に基づく観測があって、川があるから水が流れるのか、水が流れるから川があるのかというような、同じことの逆の言い方でしかありません。
仰るとおりですね。ここはコメントありません。

>恒星の内部だってほじくって覗き込むことはできませんが、いろいろなタイプの望遠鏡と理論体系を駆使して「観測可能」の領域に手繰り込むのが科学です。
>シュワ半径の内部も観測可能な物理現象が渦巻いていると、考えるわけです。
>蓋の閉ざされた箱の中には、おそらく観測可能な現象が存在していると想定するんです。
>存在しなかったら科学は成り立ちません。
>方法的懐疑もあれば方法的確信もあるんです。
>「科学理論は成り立つものとする」というのが科学の第一公理だと言ってもいいくらいです。

ここは,若干ですが,大きなコメントがあります。
「科学理論は成り立つものとする」というのは科学の第一公理ではないと考えます。
成り立つかどうか確信が持てるまで研究を続けるというのが実体でしょう。
その様な過程を経て,ニュートン力学が相対性理論に置き換わり,ミクロな世界では,量子論に置き換わり,更に,相対論を組み込んだ量子論や超ひも理論に置き換わろうとしています。今後も,加速器の大型化に伴って,新たな事実が発見され,更なる研究が続くでしょう。

>もし蓋を開けてみたときに、生きているけど死んでもいる猫がいて、その姿がだんだん透明になって顔の消えた跡に笑いだけが残ったりしたら、その時は科学の歴史は終わりです。
>しかし、おそらくそういうことは起きないだろうと仮定することが科学の根拠です。
>幸い歴史上そういうことはありませんでした。
シュレーディンガーの猫の話は有名ですね。また,(現在の所,証明はされていない)斉一系原理のことも言っているのですか?
ここは,主旨がイマイチ分かりません。

>ブラックホールの特異点も無限大の引力で大きさのない一点にとどまってくれていて、物理世界に物理法則を無視した影響を及ぼすまでのことはなさそうなので、「宇宙は物理法則に支配されている(特異点は除く)」と言っておけば科学はまだまだ有効です。
しかし,「裸の特異点」というものの存在も理論的な帰結として示唆されていて,これが存在したら,かなり問題らしいですね。

>物理世界の物理的生物としては物理法則を手がかりに現象を解き明かすしかないので、特異点の周囲で物理的に何が起きているのかを研究することしかできないのは当然です。
>そして、
>二つの「特異点の周辺の諸現象」が衝突したらどうなるかを科学的にシミュレートすることは可能ですが、二つの「特異点そのもの」が衝突したらどうなるのかを科学的に推論することは不可能です。

問題は,「逆回転するブラックホールが衝突したらどうなるか」ですので,科学的に推論できると考えます。
お互いの引力で引き合い,合体し,何も外に脱出できないために大爆発は起きず,完全に同じ質量のブラックホールが同じ速度で逆回転している場合,回転モーメントは打ち消しあって回転しなくなる。また,二つのブラックホールが合体するのだから,おそらく,その中心点も合体して一つになる。ただし,合体するときにジェットや降着円盤からのエックス線放射が激しく起こるだろう。・・・普通の推論ですね。

>特異点は物理法則を無視した存在、すなわち物理学の理論では記述できない存在だからです。

相対性理論の帰結として,「特異点」というものが考えられたのではないですか?
そして,特異点定理というものが,特異点が存在したらどのような振る舞いをするかを明らかにした定理なのだから,すなわち,物理の法則によって,記述され得ているといえると考えます。

>特異点そのものについてはほとんど理解不能です。
>とりわけ肝心なことは全くわかりません。

それは,点の内部のことは分からないという意味ですよね。しかし,そもそも,点に内部があるのでしょうか?


風effeictはどのように

>なぜ、特異点などというものが存在しうるのか。
私は,科学は,全般に「なぜ」には答えられないと考えています。ニュートン物理学にしても,なぜ,引力は発生するのかには答えられません。相対性理論にしても,なぜ,質量が時空間を曲げるのかには答えられません。
それに,特異点は本当に有るのかさえも明確に分かっているわけではありません。

>言い換えれば、なぜ宇宙に非物理的な現象が存在するのか。
特異点があるとして,非物理現象だとは思いません。物理科学の理論が追いつかない現象だとはいえますが,物理現象であることに違いはありません。そもそも,非物理現象って何ですか?私には心霊現象のようなものしか思い浮かびません。

>そもそも、なぜ宇宙は物理的な現象として存在するのか。
それは,我々が宇宙を「物理現象」として見ているからです。

>いろいろ考えてみると、たとえば、特異点を特異と呼ぶのは物理世界の発想で、本当は物理世界こそ特異な存在なのかもしれない。
>存在とは本来特異点のような無限性で、なにかが損なわれて有限性の法則世界がポップコーンのように膨れてはじけたのかもしれない。
>重力とは有限性の世界に留められた無限性の残滓のようなもの。
>などなど。
>はい、思いつきのでたらめです。
>こういう考え方は、「科学的ではないから間違っている」のではなく、「科学的ではない」んです。
私は間違っているとは発言していませんよ。「科学とSFと,思い込みは違う」といっているだけです。
ブラックホールの衝突という科学的な現象を議論するときに,ただの思い込みを開陳しても有益な議論にならないと考えたからこの様に発言しました。

>科学的な判定の対象ではそもそもありません。
>科学的とは、ある考え方の有効性を常に問うことです。
>それが科学の条件です。
>「有効性を問わずに考えてみる」のは、たんに「考えてみる」ということです。
そうですね,有効性を問わずに信じることは「信仰」ですね。私が繰り返し指摘していることは,『科学信仰に陥っていませんか?』ということです。

>科学の限界の範囲内では科学の思考が成り立ちます。
>科学的な研究のすべては科学的である、これはただの同語反復です。
>だから科学がすべてなのだと考えるのは誤りです。
>これはとても単純な思い違いです。
>科学「の」すべてであって、科学「が」すべて、ではありません。
>科学がすべてだと主張する人は、ほとんどの場合、正確に解釈すると「科学は科学なのだ」と主張しているだけで、それだけに正しく、かつ無意味です。
仰るとおりですね。

>科学の限界の範囲外では科学の思考は成り立ちません。
>科学の限界を意識しないところに優れた科学的研究が生まれることは稀です。
>科学の問題は科学的世界観の有効性の界面にしか存在しないからです。
>
>多くの科学者は科学的世界観の有効性の内部で思考の安定を手に入れて、安定を乱す者を激しく敵視することさえあります。
>そこに限界があるから立ち止まるという人はいます。
>それでも科学は動きます。
>そこに限界があるから前に進むという人もいます。
仰るとおりですね。
但し,だからといって,何も分からないから,何でも言って良いということではないと考えます。
お互いに,得るものがあるような,その様な議論をしたいと私は考えています。
だから,思いつきであっても,なるべく筋の通った思い着きを,思わず,う~んとうならせられるような思い付きを言って欲しいなと考えています。
そして,そんなあほなとか,突っ込みを入れながら,面白おかしく議論できたら,それが最高だと考えています。


訂正です。

>相対性理論の帰結として,「特異点」というものが考えられたのではないですか?
ここまでは良いのですが,

>そして,特異点定理というものが,特異点が存在したらどのような振る舞いをするかを明らかにした定理なのだから,すなわち,物理の法則によって,記述され得ているといえると考えます。
これは,間違いです。特異点定理は,特異点が存在してしまうということを数学的に証明したものに過ぎませんでした。
特異点が存在したら,どの様に振舞うかは明らかにされていません。
naturaさんの仰るように,「すなわち物理学の理論では記述できない存在」でした。

この部分については,お詫びして訂正します。


>>10 kamekameさん

明けましておめでとうございます。

遅レスですみません。
結論から言うと、二つの回転するブラックホールが衝突するとどうなるか、それ以前に特異点というものが、スレ主さんの言うとおり

調べたり考えたりしてもどーにもわかりませんです、はい。

という事態なのではないかと、想像してるんです。

特異点定理が相対性理論の帰結だとは言っても、理論的な整合性は保たれていません。
詳しいことは忘れましたが(というよりちゃんと理論を理解したわけでもないんですが)、数式の分母がゼロになってしまうとか、そんな破綻をきたしていたように思います。
つまり特異点については物理学的な記述が成立しないんです。

それが物理学理論の帰結として現れてしまうことから、ご指摘の二つの立場が生まれました。

A.物理学の理論を正しいと考え、従って特異点の存在を認める。
B.特異点の存在を認めず、従って物理学の理論に欠陥があると考える。

ちょうど虚数の存在や使用を認めるかという数学の論争と似ています。
似ているからこそ、思考上の抵抗感に対しての免疫が既にできているという点では、虚数論争と特異点論争は差があります。
どちらかといえば、特異点という概念はすんなりと受け入れられています。
それでも物理学的な記述が成立していないという事実に変わりはなく、従って物理学的な考察は不可能です。
虚数のほうは数学的な記述が成立するどころか数理体系の奥行きをぐんと広げた功績があるので、どうにも手詰まりとしか言いようのない特異点はどうかという気もします。

というところから、あとはどうとでも想像の翼をはためかせてしまうのがすきなんですが、もうちょっと筋の通った議論をという批判はごもっともです。
しかし筋の通った議論は案外でたらめに考え散らす中からしか生まれてこないものだし、ことに人と人とが闘わせる議論となると、一々つじつまを合わせて議論を連ねているようで、結局は不毛なでたらめにしかならないと、小林秀雄などは絶望しています。
議論というものはとても広い意味で『遊び』なんだと思っています。
今たまたまひとつの筋書きを考え出したんですが、これもいくらか筋が通っているようで、まるっきりでたらめな思いつきでもあります。


同じような事態に量子力学の繰り込み理論がありますが、あれも純粋に数理的な記述においては無限大の質量が帰結として現れてしまうという問題です。
こちらの場合、理論を正しいと仮定してストレートに解釈すれば『ひとつの素粒子が本当に無限大の質量を持つのかどうかという問題』になりますが、空想理論ではなく実証科学である以上、理論の欠陥を問わないわけにはいきません。
ところが朝永&ファインマンはストレートに欠陥を問うことすらせず、数式の矛盾する部分を観測された数値に置き換えてしまうという荒業で、実証科学としての解決を発明したわけです。
素人目には『ええ?そんなんでいいの?』というようなもんですが、数値を置き換えてしまってもなんと数式が成り立つので、玄人も『ええ?そんなんでいいんだ!』と目をむきました。
どのような意味で正しいと言えるのか間違っていると言えるのかどうかはともかく、観測された世界と理論とがそうしてぴったり一致する以上、少なくともノーベル賞に値する有効性はあるわけです。

もういちど特異点定理の記述の問題に立ち返ってみると、どこにでもあって観測データがあふれている素粒子と違って、特異点は観測することも存在を確認することもできそうにありません。
ただただ数式から帰結する無限大を前に途方に暮れるしかない。

しかし敢えて繰り込み理論になぞらえて考えれば、特異点が『アリエナ~イ』事態なのではなく、理論の帰結をストレートに解釈して『本当に無限大の質量をもつ大きさのない点が存在するのかどうか』を問題にすることこそが『アリエナ~イ』のかも知れません。
むしろブラックホールの中心には、有限の数値と整合的な数式によって記述されうるような現象が存在するに決まっていると、物理学的常識に則って仮定するべきなのかもしれません。
科学の進歩が幾重にも常識を打ち破ってきたとしても、常識の大切さは小揺るぎもしません。
そして理論の欠陥を問うのでもなく、整合性を保ったなんらかの数理的記述を、特異点定理の上にぴたっと貼りかぶせてしまうべきなのかも知れません。
つまり上にあげたAでもBでもない立場で、有限の質量と空間的な広がりをもつブラックホールの中心が記述される可能性はあると思います。

純粋に数理的な波動方程式の矛盾は、素粒子の質量が場にエネルギーを加え、エネルギーの増加した場が素粒子に質量を加え、質量の増加した素粒子がさらにまた場にエネルギーを加え……、という具合に理路整然と無限大の質量が生じてしてしまうというものです。
この問題をもし真っ向から解決しようとするなら、恐らくは『空間』や『物質』、ひいては『存在』といった、いわば『ともかくそれはそこにある』とされている概念を根源的に問い直す必要があるのではないかと思います。

空間の中に物質が存在する』という命題を述べるとき、わたしたちは『空間』、『物質』、『存在』という三つの概念に定義を与えています。
この命題に含まれる概念について、そもそも『空間』とは何か、『物質』とは何か、『存在』とは何か、と問い、それぞれの概念に別個の定義を与えようとするのは誤りです。
三つの概念を含む命題が述べられるとき、この命題によって始めて、三つの概念にひとまとめに定義が与えられているんです。
それらしく書いてみると

「空間とはその中に物質が存在するところのものである」
「物質とは空間の中に存在するものである」
「存在とは空間の中に物質の存在するが如し」

なんて。
これが、物質世界、物理的世界についての、ほとんど無意識にも等しい基本的な概念構成です。

ベルグソンなどは、それは違う、物質の中にこそ空間があるのだ、とまたわけの判らない修辞を発明していますが、何かそんな風に根本的に捉え直される必要があります。
ワニが三つ巴にやけっぱちに噛み付いたような定義ではなく、ひとつの同じものという意味でならひとつのものと、三つの別々のものという意味でなら別々のものと、解明されることが必要です。

数理的記述に現れる、「素粒子vs場」、「質量vsエネルギー」の無限反射とでもいうべき事態は、まさしく記述の問題、一種の自己言及なのかも知れません。
専門的な知識と思考能力が欠乏しているのでこんなことしか言えませんが、乱暴に考えれば、「素粒子の質量」と「場のエネルギー」というのは何かひとつの同じものの、別々の現れ方で、両者が互いに増幅しあうようなことはない、とか。

物質とは空間の状態である、とか。

力学には空間を表す変数は存在しない。
空間については何も語られていないのではなく、力学のすべては空間についての述語の体系である。
質量、速度、エネルギーといった概念や諸法則はみな空間についての形容である、とか。

質量ゼロの光子が運動する速度が宇宙空間での最大速度であるというのは、物質(または空間(または物質(または…)))(ともかく存在者)の存在形態として、『質量』寄りの存在形態ではなく、限りなく『広がり』寄りの存在形態である、ということなのでは、とか。

力学の数学について、等式というものの意味を舐めちゃいないか。
たんなる形式論理や算出技術ではなく、存在の本質が「=」には表されているんじゃないか。
e=mc^2という等式の意味も、もっと素直に文字通りに受け取ってもいいんじゃないか、とか。
それこそ、物質の中に空間がある、とでも言いたくなるくらいに。

空間の中を物質が運動するのではなく、空間の広がりが、ある変化を伴って広がっている、とか。

何かそんな調子で、向き合わせた鏡をひとつに重ねるように、自己言及の無限反復をひとつに収めることができるんじゃないかと思います。

とにかく波動方程式の無限反射が間違っていることは確かなので、『二つを一つに』という方向性は有力な考え方のひとつです。
自然言語で考えるには脳みそを捻って叩いて伸ばすような思考の努力が必要です。
しかし、数理的には多くの場合「だからそう言ってんじゃん」というくらいのものだと思います。

数式の意味するところを自然言語に置き換える作業はどうしても必要ですが、もうすこし謙虚に数式の言わんとするところを受け入れて、自然言語が描いた世界観にこじつける癖を改める必要はあるような気がします。
数学言語が描いた世界観に対して、自然言語はもっと敬意をもってもいいはずです。
波動方程式の無限反射についても、自然言語が数学言語を意固地に読み違えているようなきらいはあります。
もちろん人の手になる数理的な記述自体が自然言語によって歪められている面もあります。

たとえばこのように空間概念、物質概念を考え直してみるなら、ブラックホールという極限状態もすんなりと納まるかもしれません。
ひとつのヒントがあるような気がします。
で………?

今のところ、ここで思考の地平線に落っこちてしまったみたいです。


あけましておめでとうございます。
遅レスはお互い様と言うことで気にしないで下さい。

取り敢えず,感想を述べますと,「説得力って,結局,熱意なんだよなー」ということです。

ブレーンストーミングを否定しているわけではありませんが,あまりにも縛りの無い発言ばかりだと緊張感が無くて,このスレがつまらなくなってしまうのではないかと思い,少し緊張感を求めて発言しましたが,緊張感が出てきたと思いますので,取り敢えず,当初の目的は達したかと考えています。

細かいコメントは省きます。というか,コメントする意味が分からなくなりましたので,当面,ROMに戻ります。


なんだか,私も,ブラックホールに吸い込まれてしまい,思考の空間概念が崩壊してしまったような感じがしています。/~_~;;


特異点と特異点が衝突するとどうなるかは難しいですねぇ。

そもそもブラックホールでない物体がブラックホールの中へ落ちて行って特異点に達するとどうなるんでしょうか?
外から落ちていく物体を観察すると、
事象の地平面に近づくにつれて落ちていく物体の時間が遅くなっていくように見えて、
ぴたりと止まるように見える、という解説が多いですが、
同時に落ちていく主体の視点で見るとそうはならない、としている解説が多いです。
で、どうなるのかはあまり触れない。
ロシュ限界で引き裂かれるとかは書いてますが。
特異点まで落ちるんでしょうか?



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